お笑いについて

最近、お笑いについていろいろと物議かましていて、例えばAマッソの大坂なおみを侮辱するような発言だったり、金属バットの黒人差別発言だったりと。

それで、この漫才を一字一句取れば確かに問題発言はしている。

けど、ここで一つ言えるのはそれを見逃さないのよ。それはどうかと思う。

 

というのも、漫才っていろんなタイプがあって、例えば時事漫才だったりコント漫才しゃべくり漫才、ケンカ漫才など。スローでありながらパワーワードかます漫才もありますね。

ただ、漫才は掛け合いでやりあうと言うのは共通で、片方がしゃべりながらもう片方が踊っている漫才って基本的にないじゃないですか。
と言うことは、掛け合いしあうと多少の失言が出ることもあるのです。たとえばスリムクラブ漫才で過去に

内間「なんとかならんかね~」
真栄田「民主党ですか?」
内間「あなたよ!」
(会場が爆笑でどよめく)
内間「この状況で民主党の事かんがえるの、民主党にもいませんよ」
M-1グランプリ 2010 スリムクラブの漫才より一部抜粋)

これは全然いいが、風刺的なことを言っている部分あるのです。
けど、こういう風に風刺を漫才に取り入れるというのは昔からあったとおもいます。それと、ネタで有名人を滑稽に扱うこともあったと思います。それだと2002年のますだおかだの漫才はそれだったと思います。

昔はネタにされて嫌になった人っていたらしいし苦情もあった。それでも、力がある漫才師はそれを跳ね除けてやったと思う。

 

今の漫才はと言うと、綺麗にいこうとしすぎている感じがして、ガツガツ感があまり感じない。これはこれでありだけど、力のなさも垣間見ることもある。例えば、サンドウィッチマンパンクブーブーみたいに下ネタ、時事、風刺取り扱わないがそれに頼らなくても爆笑とれるからいいけど、金属バットが綺麗な漫才したときつまらなくなると思う。それは金属バットに力がないと言う風にいえるが、下ネタ、時事、風刺を取り入れたらどうかと言うとこれが変わる場合もある。

つまり、芸人って笑わせれば勝ちというところあって、どんな手法でも笑いに持っていければいいと思う。だから、今の時代は一字一句まで見逃さないというのは大間違い。

 

ただね、流れやアドリブで入れたなら聞き流す程度でいいけど、これがネタの主としてやるのは確かにダメ。つまり、Aマッソの漫才が流れのあの発言なら笑いにできたとすれば正しいとはいわないが間違いではない。ただ、その発言がネタの柱として使うのなら大きな間違いと言うこと。

そして、よく松本人志が「笑いにできるなら、自分をいじってもかまわない」と言う風な発言見受けられますが、芸人さんのほとんどの人はそういう風に思っているのではないでしょうか?つまり、いじられてナンボということ。その場ではね。
ただ、それが芸人以外になると中にはいじられたくないと思う人もいるし、イメージが下がると思う人もいるのと思います。だから、そこは信頼関係の問題。

 

まあ、結論を言うとAマッソのその漫才は間違いではなかったと思う。その理由は簡単で爆笑とったかどうかは別として、掛け合いの流れでアドリブの可能性もある。それに、こういう風な流れになる可能性って特にしゃべくり、ケンカ漫才の場合は高い。つまり、こういうのって本心で言っているのではなく流れでしゃべるから、抜粋して追及するところではないと思います。